私なりの「戦争と平和」

 

今年もこの日がやって来ましたね。
1年に1度、戦争と平和について考える日です。

小学生の頃の私自身の話をしようと思います。

はじめての平和学習は「恐怖」だった。

小学校にあがって初めての8月6日の登校日。
まず教室に入ると、教室の壁一面にモノクロの写真が並べられていました。どれも人間とは思えない、皮膚が焼けただれ、酷い火傷を負った人の写真ばかり。
この日、初めて戦争というものを知りました。
クラスの女子の中には、怖くて泣いている子もいました。

でも、怖いだけではありませんでした。

他の行事


広島県民以外の方には馴染みがない方も多いと思いますが、原爆についての歌も割とたくさんあり、この日に合唱するために練習したりもします。
「同胞(はらから)の絶え間なき 労働に築きあぐ富と幸
 今は全て潰(つい)え去らん ああ許すまじ戦争を
 三度(みたび)許すまじ原爆を 我らの空に」
言葉が難しくて、ほとんど意味が分かりませんでした。でも今もこの歌の、この部分は覚えています。
他に「夾竹桃の歌」「青い空は青いままで」など歌っていました。今でもほとんどそらんじて歌えるものが多いです。

5年生になったら修学旅行で原爆資料館に行き、佐々木貞子さんの「平和の子の像」に折り鶴を捧げるので、折り方を教わって1人30枚ずつくらい折り紙が渡され、家族総出で折っていた事も思い出します。
祖父母の家に遊びに行く時も、折り紙を夏休みの宿題と一緒に持って行き、集まった親戚にも協力してもらっていました^^;

家族と戦争

平和学習が終わって家に帰ったら、家族とも戦争について話しました。

その時、初めて祖父が徴兵されて朝鮮に居た事もあると知りました。私は正直戦争は昔の事だと、どこか他人事のように思っていたので、身近に戦争に関わった人がいると聞いてショックでした。

祖父は身体が弱かったため、前線に出る事はなく、倉庫にある物資を帳簿に記録して管理する役割だったようです。時々ごまかして、食料を傷ついた兵隊さんに分けていたそう。
ただ前線に出られなかった事で本人はその事を恥じ、悔いており。かなり強い劣等感を感じていたようです。それが後年、私への偏った「英才教育」につながっていく訳ですが。。。

母方の方は田舎の稲作農家だったので、直接かかわりはないと思っていましたが、祖父の兄弟がほとんど兵隊として徴兵されたり、戦死している人もいる事も知りました。昔の写真を出されて見ると、胸に勲章を付けた兵隊の服を着た人の写真がずらりと並んでいて。写真を裏返して見ると、ほとんど「〇〇年〇月〇日、▲▲にて戦死」と書かれていました。

私の祖父は父方・母方とも私が小学校2年生にあがるまでに亡くなっています。
もしこの時、家族と話し合わなかったら祖父たちが戦争に関わっていた事を直接聞く機会はなかったでしょう。
その意味では貴重な日でした。

子供にとっての「戦争」

人生初めての平和学習は、そんな風に恐怖から始まりましたが、その後もしばらくそれは続きます。

翌日の朝、ラジオ体操に行ってからも、みんなで戦争について話し合していました。ご近所の大人も一緒にラジオ体操をするため、ご近所さんとも平和学習の内容について話し合ってみたり。

私が通っていた小学校では、夏休みには「分団プール」というのがありました。学区が東と西に分けられ、「東〇〇分団」「西■■分団」という風に区分けされていました。ちなみに私の家の周辺は「西3の2分団」。相当児童数が多かった事がうかがえますね。
この分団プールは、学校のプールを1時間ごとに分団を入れ替え、無料開放する夏休みの行事です。市民プールはお金がかかるため、無料でプールに入れる分団プールは子供たちにとってオアシスでした。監視につくPTAには負担だったかもしれませんが😓

平和学習の後しばらくは、この分団プールの行き帰りでも話題はやっぱり「戦争の怖さ」でした。
夏休みの登校日は投稿班はなかったと記憶しています。なので他の学年の子と夏休みの間に話せるのは、ラジオ体操と分団プールの間のみでした。もちろん上級生たちとも戦争についての話をします。

そして2学期が始まり、授業が始まってからも、授業中に飛行機の音が聞こえて来たら、クラスの誰か(大抵男子😅)が「B29なんじゃあ・・・」と言い出し、女子が怖がって騒いでいた事も思い出されます。

終わっていない戦争

そんな日々を過ごしながらも、私はしばらくの間、戦争は「過去の出来事」としてとらえていました。
そんな中「湾岸戦争」のニュースが飛び込んで来ます。
まだ戦争は終わっていなくて、広い世界のどこかではずっと戦争が続いていたのだと、その時初めて知りました。

小学校の時、授業中に「B29なんじゃあ・・・」と騒いでいた男子のように、授業中に飛行機の音がしたら「イラクに行く爆撃機なんじゃあ・・・」「もしそうだったら、間違ってここへ墜落したら・・・」と騒いだりもしていました。

みんなで「影送り」

平和学習は、なにも怖い思い出ばかりでもありません。
「ちいちゃんの影送り」という平和学習のための教材文書があります。

主人公は「ちいちゃん」。小さいから「ちいちゃん」。家族と一緒に手をつないで「影送り」をしていました。

この影送りというのは、真夏の雲1つない青空でないと出来ない遊びなのですが、まず影をじーっと見つめます。まばたきをしないように、10数えます。その後、そのまま空を見上げると、空に影が白く映る・・・という遊びです。

ある日、原爆でちいちゃんは家族を全員亡くします。天涯孤独になってしまったちいちゃん。その寂しさから、ちいちゃんは1人で影送りをします。すると空には、家族の影が映ります。手をつないで。そしてちいちゃんは「家族はいつもそばに居る」と寂しさをこらえ、強く生きようと誓う・・・そんな話でした。

私たちの間でも、しばらくこの「影送り」をして遊びました。先生も一緒になって校庭に出て、皆で手をつないで影送りをし、空を見上げていました。

やっぱりカープ!

私は祖父の代から3代続く、生粋のカープファンですw

別に祖父や父が好きだから、カープファンになった訳ではありません。気が付いたらカープファンでした。

そのカープは、戦後間もない、広島市民にとって娯楽も何もない頃に生まれた球団。いわば「復興の象徴」でした。食べ物もろくにまだなかったのに、なけなしのお金を寄付して球団の存続を訴える・・・そんな市民に愛された球団です。その寄付が後々、たる募金につながっていく訳ですが。

今は「ピースナイター」も開催されます。大抵地元ローカルのRCCが中継放送するのですが、この時地元紙の中国新聞のラテ欄(テレビ欄)は、ピースナイターの中継枠は毎年縦読みで「野球を楽しめる平和に感謝」といった内容の文章を作ります。

少し話は逸れますが、よくピースナイターの時に相手チームが勝つと「空気読めや」というファンが居ますが、これはもちろん解釈が違います。「カープを勝たせないといけない日」ではありません。「野球が出来る(見られる)平和に感謝」し、敵味方関係なくこの平和が続くように祈る日です。

平和について考える日

社会人になってからでしょうか。
「え?8月6日の登校日って、広島県内だけなの?!」と、衝撃を受けたのはw

そして広島県民でも8月6日には黙とうを捧げていても、8月9日が長崎の原爆の日だという事を知らない人もいると知りました。私は自分の誕生日だから覚えざるを得ないのですが^^;

1年中平和について考える人は居ないでしょう。でも、1年に1回くらいは平和について意識してみる機会だと思います。

今回のオリンピックでは、8時15分に黙とうはしないと聞き、がっかりしました。IOCが発表した理由だと「日本も戦争では、相手国に被害を与えている」「政治的な行事をスポーツに持ち込むべきではない」のだからだそうです。なんだ❓平和の祭典って。

けれど祈ること・平和について語ることは、個人の自由だと思います。IOCはそう言っていても、外国人が皆が皆、黙とうしない訳ではありません。心を痛めて一緒に祈ってくれる人も居ます。

私のTwitterのタイムライン上も、祈りの言葉に溢れています。

戦争がなくなりますように。
戦争で罪もなく死んだ方が、安らかに眠れますように。
コロナが早く収束し、平和な日常が戻りますように。

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